パターナリズム問題意識の歴史的展開(1900年以降)―医療・看護・教育・国際支援分野を中心に
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1900年以降を対象に、医療、看護、教育、国際支援など他者介入を伴う分野におけるパターナリズムの問題について、学術論文を中心に英語文献を調査し、その問題意識がどのように発生し、どのように分野間で伝播し、発展してきたのかを時代区分ごとにまとめます。
緒言
本調査の目的は、1900年以降の英語圏学術論文を対象に、医療、看護、教育、国際支援など「他者への支援・介入」を行う各分野において、パターナリズム(父権主義)が問題視されるようになった経緯とその議論の歴史的展開を明らかにすることである。パターナリズムとは、個人の自由や自己決定を制限してでも相手の利益のために介入する態度・行為を指し、一般に否定的な意味合いで用いられる。語源はラテン語の「pater(父)」であり、他者を保護すべき「子」のようにみなす発想を含んでいる。本調査では、医療や教育といった専門職による支援関係におけるパターナリズムの議論に着目し、以下の観点から整理する。
- 調査対象範囲・方法: 1900年以降の英語圏の主要な学術文献・倫理規範を検討対象とし、特に医療(医療倫理)、看護(看護倫理)、教育(教育哲学・教育社会学)、国際支援(開発学・国際関係)における議論をバランスよく取り上げた。文献検索では「paternalism(パターナリズム)」「autonomy(自律)」「informed consent(インフォームド・コンセント)」「patient rights(患者の権利)」「development aid paternalism(開発援助におけるパターナリズム)」等のキーワードを用いた。
- 調査の視点: 各分野でパターナリズムが問題視され始めた時期と背景、その理論的枠組み(キーワード: 自律(autonomy)・恩恵的介入(beneficence)・インフォームド・コンセント・人権など)を年代順に整理する。また、ある分野での議論が他分野に与えた影響や、分野横断的な共通点・相違点についても検討する。
- 報告構成: 時代区分として「1950年以前(問題化以前)」「1960〜70年代(倫理的転換と批判の芽生え)」「1980〜90年代(医療倫理と人権の強調)」「2000年代以降(多文化主義・グローバル化・ケアの倫理との交差)」の4期に分け、各期ごとに主要な論者・論文、理論の発展、キーワードを概観する。必要に応じて表や引用を用いて論点を整理する。
パターナリズム問題化以前 ~1950年
20世紀前半までは、医療や教育など他者支援の現場でパターナリズム的な態度は広く容認され、明確に問題視されることは少なかった。この時期、パターナリズムという用語自体は19世紀後半に個人の自由の価値を強調する文脈で登場したが、専門職による「恩恵的な支配」は長らく当然視されていた。各分野の状況を概観すると次の通りである。
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医療分野: 古くから「医者は患者のために最善を判断すべき」というヒポクラテス的倫理観が支配的で、患者への十分な説明や同意を得ない治療(治療上の嘘も含む)は正当化されていた。患者は自らの病状や治療方針について決定権を持たず、医師の指示に従うのが通常であった。こうした医療における父権的姿勢は「パターナリスティックな善意」と捉えられ、ほとんど疑問視されなかった。
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看護・介護分野: 看護師によるケアも医師の延長線上に位置づけられ、患者の権利意識は希薄であった。看護の歴史を見ても、患者の意思よりも専門職としての判断が優先され、結果として患者の意思決定権は軽視されていた。例えば痛みに対する訴えやケアの希望よりも、看護者側が「患者のため」と考える措置が尊重される傾向があった。
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教育分野: 初等・中等教育ではin loco parentis(親に代わる立場)として教師が児童・生徒を管理することが正当化され、権威主義的・父権的な教育スタイルが一般的だった。20世紀初頭のアメリカでは、都市の公立学校が移民の子どもたちを「アメリカ化」する役割を担い、従順さや生活習慣の矯正に力が注がれた。これは貧困移民の子弟を英語習得や衛生管理に適応させる 「慈愛的パターナリズム」 の一例と言え、教師は子どもの髪や服装を整え衛生状況をチェックし、家庭生活にも干渉した。教育の現場では、児童・生徒の自主性よりも「大人が導くべき」という価値観が強く、学校は子供の行動や価値観を矯正する場と捉えられていた。
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国際支援分野: 植民地主義の時代から20世紀半ばまで、豊かな国が「後進的」とみなした地域に一方的に文明や開発を施す考え方が主流であった。19世紀末に広まった**「白人の責務」(White Man’s Burden)** の思想は、植民地支配を父権的な保護として正当化した典型である。現地の人々を「未成熟」で「自力での改善ができない子供」のように捉え、西洋が代わって導くべきだという物語が語られた。第二次世界大戦後に始まる国際開発援助においても、当初は先進国が発展途上国のニーズを代弁し上から支援策を押し付けるような トップダウン型のアプローチが当然視されていた。援助を受ける側の主体性よりも、援助する側の「善意」と「専門性」が前面に出ていたのである。
以上のように、1950年頃まで各分野でパターナリズム的実践は慣習的に受け入れられていた。もっとも哲学・思想の領域では、すでに19世紀にジョン・ステュアート・ミルが『自由論』(1859年)で成年市民への強制介入(パターナリズム)を原則否定するなどの議論があった。しかしそうした自由主義的批判が医療や教育の実務に反映されるには時間がかかり、20世紀前半の時点ではパターナリズムが明確に「問題」として提起されるには至っていなかった。
1960〜1970年代:倫理的転換と批判の芽生え
1960年代から70年代にかけて、社会全体の人権意識の高まりや専門職倫理の見直しを背景に、パターナリズムへの批判が各分野で表面化し始めた。この時期は公民権運動や学生運動、第二波フェミニズムなど社会変革の気運が高まり、従来の権威主義に対する異議申し立てが起こった時代である。パターナリズムも「本人の同意なく善意で干渉する行為」として倫理的に再検討され、 自律(autonomy) や 権利(rights) の観点から批判の矛先が向けられるようになった。以下、分野ごとの展開と主な論者・出来事を整理する。
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医療分野: 患者を取り巻く倫理環境に大きな転機が訪れたのがこの時期である。きっかけの一つは医学研究や医療現場での人権侵害が社会問題化したことだった。第二次大戦後のニュルンベルク継続裁判(1946年)の医師裁判で明るみに出た強制人体実験の反省から、1947年にニュルンベルク綱領が「ボランタリーな同意の絶対的必要性」を謳い、これが医療・研究におけるパターナリズム批判の基礎を築いた。その後も、例えば米国で無断で患者を臨床研究に組み入れたビーチャー報告(ヘンリー・K・ビーチャーによる1966年の論文)や、黒人患者を対象に治療を与えず梅毒の経過を観察したタスキギー梅毒事件(1972年公表)は社会に衝撃を与え、医学界における同意軽視のパターナリズムを告発する出来事となった。これらを受けて、1970年代にはインフォームド・コンセント(説明と同意)の概念が臨床や研究の場で定着し始め、患者・被験者が自らの参加や治療を選ぶ権利が強調されるようになった。またアメリカ病院協会(AHA)は1973年に患者の権利章典を採択し、患者が診療上の意思決定に参与する権利を公式に宣言した。この章典は医療現場のパターナリズム慣行を見直し、患者を受動的存在から能動的パートナーへ位置づけ直す象徴的な一歩となった。
学術的にも、哲学者ジェラルド・ドウォーキン(Gerald Dworkin)が1971年に発表した論文「Paternalism」により、パターナリズムは倫理哲学上のホットトピックとして再浮上した。ドウォーキンはパターナリズムを「本人の福利のためにその自由を制限する行為」と定義し、どのような場合にそれが正当化されうるかを分析した。彼はさらに介入の程度に応じて強い/弱い・純粋/混合・ハード/ソフトなどパターナリズムの類型化を行い、倫理的に許容される範囲を検討した。例えば、明らかに不合理な自傷行為を止めるような「弱いパターナリズム」は容認しうる一方、当人が十分理解した上での選択を外部が覆すような「強いパターナリズム」は原則不当とされた。このドウォーキンの理論枠組みは、のちの医療倫理議論にも大きな影響を与え、医師による介入の是非を判断する際の基準として引用されていくことになる。
こうした潮流の中、患者の自己決定権という概念が広く支持を集め始めた。1970年代後半には米国の判例(例えば1972年のCanterbury v. Spence事件)が医師の説明義務を強調し、従来の「医師が最善と判断すれば患者への告知を控えてもよい」という慣習(治療的特権)を否定する方向へ転じた。医療倫理の分野でも1979年にトム・ビーチャンプとジェームズ・チルドレスが提唱した4原則アプローチ(自律尊重・善行・無害・正義)において、自律尊重(患者本人の意思を尊重すること)は最重要の倫理原則の一つと位置づけられた。これにより、パターナリズム(たとえ善意に基づくものでも)は他の原則と緊張関係にあるもの、慎重な扱いを要するものと認識されるようになった。
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看護分野: 医療界全体の倫理的変革と歩調を合わせ、看護・介護の領域でもパターナリズムへの批判が芽生えた。とりわけ看護職は患者に最も近い立場として、従来の医師主導の中で患者意思が埋没してきたことを省みるようになる。1970年代には「患者の権利」を支持しインフォームド・コンセントを看護実践にも取り入れるべきとの主張が台頭した。看護倫理コードにも徐々に患者の自己決定尊重や人間の尊厳擁護といった文言が盛り込まれていった。例えばアメリカ看護協会(ANA)の倫理綱領も、この時期の改訂で患者への説明責任や協働的意思決定を重視する方向にシフトしている。また看護師が 患者の代弁者(patient advocate) となる役割が強調されるようになったのもこの頃である。すなわち、医師による paternalistic な対応で患者の希望が軽視されそうな場面では、看護師が患者側に立って意思表明を支援するという新しい専門職像が模索され始めた。
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教育分野: 学校教育の現場でも1960年代以降、権威への挑戦と個人の権利意識の高まりが見られた。大学では学生運動の影響でイン・ロコ・パレンティス(大学が親代わりに学生を管理する考え方)が次第に否定され、学生にも自己決定や表現の自由があることが司法や社会に認められていった。米国では1960年代末から1970年代にかけて連邦最高裁判所がTinker v. Des Moines(1969年)事件で公立校生徒の表現の自由を認め、Goss v. Lopez(1975年)事件で停学処分に際しての適正手続きを生徒に保障する判断を示すなど、学生・生徒の権利を擁護する判決が相次いだ。これにより校長や教師が従来のように恣意的・一方的に生徒を統制することが難しくなり、教育におけるパターナリスティックな手法は公然とは支持されにくくなった。また初等・中等教育でも、米国公民権運動の文脈で1960年代後半に発表されたモイニハン報告(1965年)が「文化的背景や家庭環境が学業に与える影響」に踏み込んだ議論を呼び物議を醸して以降、 人種や文化の違いを考慮せず一律に中産階級の価値観を押し付ける教育 は批判の的となった。これは、従来の都市学校で行われてきた価値観注入型の「恩恵的支配」をタブー視する風潮につながった。代わりに、進歩主義教育の流れを汲む 児童中心教育 (child-centered education)や 発見学習 など、生徒の主体性や内発的動機づけを重んじる教育理論が支持を広げた。パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』(1970年)は教育の場の権力関係を批判し、対話的で解放的な教育を提唱したが、これはまさに従来の教師=父権的権威、生徒=受動的存在という構図を転換しようとする試みだったと言える。こうした教育哲学上の革新も各国に影響を与え、1970年代には教育現場で教師が一方的に価値観を押し付けることへの警戒が芽生え始めた。
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国際支援分野: 1960年代はアジア・アフリカの植民地が次々に独立を果たした時期であり、国際社会では植民地主義や人種差別と対峙する潮流が強まった。これに伴い、従来の援助に内在する「上から目線」の姿勢も見直され始める。例えば1968年、思想家イワン・イリイチは渡米予定のボランティア青年たちに対し「善意による介入は地元社会を傷つける」という有名な講演(「善意の地獄へようこそ」 To Hell with Good Intentions)を行い、欧米の若者が中南米に送り込まれて行う援助活動を パターナリスティックな自己満足 だと痛烈に批判した。このように一部では援助のあり方への自己批判が生まれたものの、開発援助の主流パラダイムであった「近代化論」「経済成長至上」の考え方自体は依然トップダウン色が強かった。1970年代になると、国連や援助機関で「基本ニーズの充足」や住民参加の重要性が語られるようになるが、現場レベルで参加型アプローチが一般化するにはまだ時間を要した。それでも、この時期に 被援助者のエンパワーメント (権限付与)という考え方の萌芽が見られたことは特筆に値する。各地のNGO活動や一部の先駆的プロジェクトでは、現地の人々自身が計画策定や実施に関与する枠組みが試みられ、従来の「教えてやる・助けてやる」型の開発から脱却しようという動きが始まっている。
この時代の主な論者・文献・キーワード:
- ジェラルド・ドウォーキン (Gerald Dworkin)「パターナリズム」(1971年) – パターナリズムを哲学的に再定義し類型化。
- インフォームド・コンセントの確立 – ニュルンベルク綱領 (1947年)、ヘルシンキ宣言 (1964年)、米国患者の権利章典 (1973年)。
- 主要なキーワード: 患者の権利、自己決定権、説明義務、学生の権利、住民参加、エンパワーメント。
1980〜1990年代:医療倫理と人権の強調
1980年代から90年代にかけて、パターナリズム批判は各分野で一層明確な形となり、人権尊重や個人の尊厳という原則が前面に打ち出された。医療・看護では バイオエシックス(生命倫理) の確立に伴いパターナリズム否定が定説となり、教育では子どもの権利条約など国際的枠組みが整い、国際支援でも参加型・権利ベースのアプローチが主流化し始めた。各領域での展開を以下にまとめる。
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医療分野: 前時代に芽生えた患者の自己決定尊重の理念は、この時代に確固たる地位を得た。米国を中心に医療倫理の学問分野が発展し、「パターナリズム vs. 自律」という構図で数多くの議論が行われた。1980年代には例えばアラン・ゴールドマン(Alan Goldman)による「医学的パターナリズムの論駁」(1980年)や、G.B.ワイス(George Bernard Weiss)「パターナリズムの現代化」(1985年)といった論考が発表され、パターナリズム擁護派・批判派の間で活発な論争が交わされた。総じてこの時代までに専門家による一方的介入は時代遅れであるとの見方が支配的になった。実際、 自律(オートノミー)尊重 が「善行」「無害」と並ぶ医療倫理の基本原則として定着した結果、「患者本人が望まない治療を強いるのは倫理に反する」というのが各国の医療者の共通認識となっていった。1990年代には多くの国でインフォームド・コンセント関連の法整備(例えば手術・臨床研究実施時の文書同意の義務化)が進み、患者が拒否した治療を行えば訴訟になり得るという状況が現実のものとなった。
またこの時期、患者の権利章典や患者の権利法の整備が各国で相次いだ。欧州ではリスボン宣言(世界医師会, 1981年)が患者の権利を謳い、米国でも州法レベルで患者の自己決定権を保障する条項が整備された。さらに1990年の患者自己決定法(Patient Self-Determination Act, 米国)は、医療機関に患者の事前指示(リビングウィル)を確認することを義務づけ、患者が自らの望む医療を前もって指示できる枠組みを作った。これは延命治療の中止等の困難な決定において、従来は医師や家族が「本人のため」と決めていたものを、できる限り本人の意思に委ねようという動きの一環であり、パターナリスティックな関与を排する方向への一大転換であった。
他方で、こうした極端な自律尊重の潮流に対して「患者に全ての決定を委ねるのは現実的に負担が大きすぎるのではないか」との懸念も少しずつ指摘され始めた。例えば慢性疾患で疲弊した患者に複雑な治療の選択を迫ることがかえって不利益を生むこともあるとの指摘や、高度な医学知識を要する判断では患者は医師の助言に依存せざるを得ないという現実論である。しかしこれらは原則論としてパターナリズムを復権させる動きではなく、あくまで自律尊重を前提にしたうえでの実務上の課題として論じられた。総じて90年代までに、医療の場ではパターナリズムは「古い考え方」と見做されるに至った。
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看護分野: 医療と同様、この時期に看護職も患者の自己決定支援を専門職責務の中核に据えるようになった。看護倫理学の発展により、 オートノミー vs. ベネフィセンス(自律 vs. 善行) のジレンマがしばしば論じられ、看護師が患者の意思を最大限尊重しつつ安全も確保するための方策が模索された。看護学術誌には「患者のエンパワーメント(主体化)」「インフォームド・コンセントの促進」といったテーマの論文が多数掲載され、William Codyによる包括的レビュー「看護とヘルスケアにおけるパターナリズム:中心的課題と理論との関係」(2003年)は、20世紀末までの議論を総括している。Codyは看護領域で依然残る父権的ケアの問題に着目し、人間の尊厳を重んじる看護理論によってそれを克服すべきと提言した。
90年代には患者参加型看護(Participatory Nursing)や意思決定支援という考え方が普及し、看護教育でもケーススタディを通じて「患者の自己決定をいかに尊重するか」が重視された。さらに看護師が果たすべき倫理的役割として、患者・家族と医師団との仲介役、すなわち患者の希望が医療者にきちんと伝わるよう アドボカシー(擁護) することが明文化されるようになった。例えばICN(国際看護師協会)の倫理綱領も1989年改訂で患者の意思決定支援を明確に謳っている。これらは従来の「患者に代わって良かれと判断してあげる看護」からの脱却を示すものであり、看護におけるパターナリズムの克服が国際的スタンダードになったことを物語っている。
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教育分野: 教育においても、1980年代以降は子どもの権利の観点が強調され、教員の在り方が見直された。1989年に国連で採択された子どもの権利条約は、教育を受ける者である子どもにも意見表明権や最善の利益の優先といった権利があることを国際社会で確認した。これにより各国の教育政策・校則にも影響が及び、子どもの意見を尊重する制度整備(生徒による学校運営参加や生徒の権利章典の策定など)が進んだ。例えば日本でも1990年代後半から生徒会活動の活性化や学校評議員会への保護者・生徒参加など、教育現場での民主的運営が議論されていく。
教育学的には、児童心理学や認知科学の発展により「子どもは自ら学ぶ力を持つ主体」として扱われるようになった。ピアジェやヴィゴツキーの理論を背景に、教師は一方的な知識伝達者ではなくファシリテーター(学習促進者)として子どもの自主的探求を支えるべきだというコンセンサスが広がった。これらは明示的に「パターナリズム」の用語を用いるものではないが、本質的に教師の父権的役割を転換する動きであったと言える。また問題行動を起こす生徒への対応にも変化が見られ、懲罰や厳格な統制よりも、カウンセリング的手法や生徒の意見聴取を重視する方向へシフトした。もっとも現場レベルでは依然として旧来的な管理主義が残存する場合も多く、教育におけるパターナリズムは完全になくなったわけではない。しかしながら少なくとも理論・政策の次元では、子どもを受動的存在とみなす考え方は後退し、子どもの主体性や権利が尊重されるべきだというのが1980年代以降の大勢となった。
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国際支援分野: 1980年代から90年代にかけて、国際開発・援助の世界では参加型開発や人間開発の理念が台頭し、従来のパターナリズム的手法への反省が深まった。イギリスのロバート・チェンバースは著書『プットゥィング・ザ・ラスト・ファースト』(1983年)で貧しい人々自身が開発の主役になるべきと説き、PRA(参加型農村調査)など住民主体の手法を広めた。また1990年に国連開発計画(UNDP)が人間開発報告書を創刊し、単なる経済成長でなく人々の選択肢拡大(=エンパワーメント)を目標とする開発観を提示したのも象徴的である。これらの動きは、「発展途上国の課題は先進国が上から指導すれば解決できる」という旧来の開発神話を批判し、代わりに現地の声を聞く・草の根からのアプローチを掲げたものだった。
1990年代にはさらに 権利に基づくアプローチ(RBA: Rights-Based Approach) が国際援助機関で採用され始めた。これは受益者を施しを受ける対象ではなく、権利の主体とみなし、援助提供者はその権利実現を手伝う義務を負うという考え方である。典型的には、教育や保健への「アクセス」は子どもの権利であり、援助はそれを充足させる手段と位置づける、といった枠組みがとられた。RBAの浸透は、援助する側が一方的にやり方を決めるパターナリズムを理論上否定し、現地政府・人々とのパートナーシップを強調する方向へ業界全体を動かした。
しかし現実には、資金や技術を握る援助供与側が主導権を持ちがちである構図は根強く残った。1990年代後半には途上国政府に市場開放や行政改革を条件として援助・融資を行う構造調整プログラムが展開されたが、これは「援助をてこに相手国の政策に干渉する新たなパターナリズム」との批判を招いた。その反省から2000年代に入ると援助の オーナーシップ(主体性) という概念が強調されるようになり、2005年のパリ宣言では受援国自身の開発戦略尊重が原則として確認された。
この時代のキーワードと代表例:
- 自律尊重の原則: バイオエシックスにおける確立(Beauchamp & Childress『Principles of Biomedical Ethics』1979年)。患者の自己決定が医療の黄金律となる。
- 患者の権利運動: 患者の権利章典(各国で1970-90年代に制定)、患者自己決定法(米1990年)など。
- 学術論争: 「パターナリズム擁護 vs. 自律尊重」の論争激化。Goldman (1980)や佐藤幹夫(1987)※などによるパターナリズム批判、逆にPellegrinoらによる医師の善意の役割擁護など、多角的議論。
- 国際宣言: 子どもの権利条約 (1989年) – 教育・福祉現場で子どもの最善の利益を優先する義務を確認。
- 開発アプローチ: 参加型開発(Participatory Development)、権利ベースアプローチ (RBA) の登場 – 援助におけるパターナリズム否定を理論化。
2000年代以降:多文化主義、グローバル化、ケアの倫理との交差
21世紀に入ると、パターナリズムをめぐる議論はさらに多層的・国際的な広がりを見せた。基本的には前時代までに確立した「本人の同意を尊重すべし」というパラダイムが共有されつつも、多文化主義の尊重やグローバルな視点から、一律な反パターナリズムにも再考を促す声が出てきた。またフェミニズムに由来するケアの倫理など、新たな理論枠組みとの交差によってパターナリズム概念にも新しい光が当てられている。以下、幾つかのトピックに沿って近年の展開を述べる。
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文化的多様性とパターナリズム: 西洋では患者の自律や個人の権利を重視する価値観が主流だが、世界にはそれと異なる文化的文脈が存在する。例えば東アジアの伝統では、病名告知ひとつ取っても「家族が先に聞き、患者本人には直接告げない」という父権的な習慣が根強く残っている場合がある。実際、中国や日本では家族中心主義や儒教的価値観のもと、医師が患者本人よりも家族に情報を伝える方がむしろ「思いやり」とされてきた経緯がある。レバノンなど中東でも、従来は父権的態度が一般的だったが近年徐々に患者の自己決定を尊重する方向に移行している。こうした事例は、パターナリズム批判が文化相対主義と衝突し得ることを示唆する。すなわち、「自律こそ善」とする普遍主義的立場で各国の実践を裁くことへの慎重論である。21世紀の医療倫理・開発倫理は、このような文化的文脈の違いにも配慮しつつ、しかし人権の普遍性とのバランスを取ることが課題となっている。多文化主義的視点では、何が相手のためになるか(Beneficence)についての価値観も文化ごとに異なる可能性があるため、一概にパターナリズムを断罪するだけでなく文化適応的な支援・ケアの在り方が模索されている。
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「新しいパターナリズム」の台頭: 一方、個人の自由を尊重しつつも社会全体の善を促進するために穏やかな介入を肯定する理論も登場した。その代表が 「リバタリアン・パターナリズム」(Libertarian Paternalism)である。シカゴ大学の経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは2003年の論文でこの概念を提唱し、2008年の著書『Nudge(ナッジ)』で詳細を述べている。リバタリアン・パターナリズムは、「人々の選択の自由を残しつつ、より良い選択肢に そっと誘導 する」介入を擁護するものである。例えば加入手続きが煩雑で見落とされがちな年金制度に自動加入(opt-out可能)制を採用して人々の将来の利益を守る、といった政策がこれに当たる。従来、経済学者や倫理学者の多くは「パターナリズム=悪」としてきたが、セイラーらは行動経済学の知見を背景に、人間の非合理な選択傾向を補正するためには一定の介入が必要であり、それでも最終的な選択権を本人に残すなら自由主義と両立しうると論じた。このアプローチは「柔らかなパターナリズム(soft paternalism)の再評価」とも言え、21世紀に入り各国政府の公共政策(健康増進策や消費者保護策)に影響を与えている。ただし批判者は、ナッジ政策も結局は専門家が大衆の何が「良い選択」かを決めつけている点で潜在的なパターナリズムだと指摘する。いずれにせよ、この議論は自律重視一辺倒で停滞していた倫理論に一石を投じ、パターナリズム概念の射程を改めて問い直す契機となっている。
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ケアの倫理と関係性の視点: 1980年代にフェミニズムから生まれたケアの倫理(Ethic of Care)は、人間関係や相互依存に着目する道徳理論であり、自律重視のリベラル倫理学に一石を投じた。ケアの倫理の文脈では、伝統的なパターナリズム批判にも新たな視座がもたらされた。すなわち、人はみな脆弱で他者のケアに依存する存在である以上、完全な自己決定などあり得ず、むしろ適切なケア関係の中でこそ本人の真の利益が実現されるという考え方である。これは一見パターナリズム容認に繋がりかねない主張のようにも思えるが、ケア倫理学者たちは「ケア」を口実にした押し付け(すなわち旧来的パターナリズム)を警戒している。むしろケアの倫理では、相手を個別的な存在として理解し、その自由を他者としてのまなざしで尊重することが重んじられる。例えばシモーヌ・ド・ボーヴォワールの倫理思想に基づく近年の論考では、西洋中心的なケアの押し付けは新たな「帝国的パターナリズム」を生みかねないと指摘されている。これはグローバルな介護・看護の文脈で、先進国型のケアモデルをそのまま輸出することへの批判であり、ケアの実践においても被ケア者の自由を常に問い続ける必要性を示唆する。さらにフェミニスト哲学では**関係的自律(relational autonomy)**という概念が提唱され、個人の自律を純粋な単独者の属性ではなく、人との関係性の中で育まれるものと捉え直した。この見方によれば、自律と他者からの支援はゼロサムではなく、適切な関係性がかえって自律を高めることもあり得る。このようにケアの倫理は、パターナリズムを「自律とケアの対立」とだけ捉える図式から脱し、文脈に根差した柔軟な倫理判断を促す理論的土壌を提供している。
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専門職実践の動向: 2000年代以降の実務面では、各分野でパターナリズム克服の理念を踏まえた新たなモデルが展開された。医療では共同意思決定(Shared Decision-Making)モデルが普及し、医師と患者が対等に話し合って治療方針を決めるアプローチが推奨されている。これは「医師が一方的に指示」「患者が一方的に選択」という両極端を避け、情報提供と価値観の共有を通じて合意形成するもので、古典的パターナリズムへの一つの解答となっている。また看護・介護では、認知症高齢者や意思判断能力の低下した患者への対応でソフトなパターナリズム(最善の利益を図りつつも出来る限り本人の残存能力を尊重する介入)の妥当性が議論されるようになった。教育分野では、生徒の自己規律を促すポジティブ行動支援など、強権的な罰ではなく生徒と協働して望ましい行動を育てる手法が注目されている。一方で2000年代に米国で台頭したチャータースクールの一部(いわゆる”No Excuses”校)は、厳格な校則と徹底管理によって都市部の貧困層学生の学力向上を図り成果を上げたため、「教育におけるパターナリズム復活か」と議論を呼んだ。この現象は逆説的に、いかに「パターナリズム」という言葉が現代でも忌避されるかを示している。実際、それらの学校関係者自身も「パターナリスティックと呼ばれるのは心外だ」と述べており、たとえ善意の厳格指導であってもレッテルとしてのパターナリズムは依然ネガティブな響きを持つ。
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国際支援分野: グローバル化した現代では、NGOや国際機関が世界中で活動しているが、そこで常につきまとうのが「外部から来た者による押し付け」への警戒である。近年、開発・援助業界ではローカル主導や地域主体性が頻繁に唱えられ、政策策定にも現地主体の参加が要件とされるようになった。例えば2011年のバスケット原則(援助効果向上の国際合意)では「途上国政府のリーダーシップ尊重」が掲げられている。しかし、緊急人道支援の場などでは今なお「欧米の論理で動く人道ガバナンス」が批判されることがある。研究者は「国際人道秩序そのものがパターナリズム原理で組織されている」と指摘しており、たとえば難民キャンプ運営での一方的管理や、国連平和維持活動での介入の正当化ロジックなどが議論の対象となっている。こうした批判を受け、大規模NGOは被支援者からのフィードバック機構を設けたり、意思決定層に南半球出身者を増やす努力をしたりしている。また援助を受ける側の社会でも、「自国の課題は自国民が解決すべき」という自己決定の主張が強まっている(いわゆる「援助離れ」の傾向)。総じて、国際支援におけるパターナリズムはかつてより露骨ではなくなったが、構造的には依然として潜みうるため、21世紀の援助論では対等なパートナーシップと説明責任がキーワードとなっている。
21世紀の主な論点とキーワード:
- 多文化主義と倫理: 非西洋圏におけるパターナリズム慣行への理解と、人権普遍主義との調和(例えば医療の真実告知をめぐる文化差)。
- リバタリアン・パターナリズム: セイラー&サンスティーン(2003年)による提唱。ナッジ理論の政策応用と論争。
- ケアの倫理と関係的自律: 自律対立軸の見直し。関係性の中の自律や文脈依存の倫理判断。
- 専門職モデルの進化: 共同意思決定(医療)、アドバンス・ケア・プランニング(療養支援における事前意思表明)、積極的傾聴と協働学習(教育)など、パターナリズムを克服する実践的手法の普及。
- 国際的潮流: 「現地化(Localization)」の推進 – 現地主導の支援体制づくり、援助における権力不均衡の是正努力。
おわりに
以上、1900年以降の英語圏主要文献を辿りながら、医療・看護・教育・国際支援分野におけるパターナリズム概念の歴史的展開を概観した。総括すると、20世紀半ばまではパターナリズムは明示的に問題視されることなく各分野で受容されていたが、1960年代以降の人権意識の高まりに伴い 「本人の意思を無視した介入」 として批判の対象となった。医療・看護では患者の自己決定権が倫理・法規範に組み込まれ、教育では子どもの権利が国際的に承認され、国際援助でも被援助者の主体性尊重が理念として確立した。こうした変化は互いに影響を及ぼし合い、例えば医療分野のインフォームド・コンセント概念は他領域にも波及し、国際人権規範はあらゆる対人支援職の行動指針となった。
21世紀現在、パターナリズムは否定的な語として定着しているものの、その議論はなお進行中である。多文化社会における価値観の相違や、高齢化社会での意思能力低下への対応、新興技術に対する規制(例:公衆衛生上の介入やAIによる行動誘導)など、新たな文脈で「どこまで介入を正当とできるか」が問われている。単純な 「パターナリズム vs. 自由」 の図式を超え、関係性や文脈を踏まえたきめ細かな倫理的判断が求められていると言えよう。各分野はこれまでの議論の蓄積を共有しつつ、相互に学び合いながら、人々の尊厳と福祉の双方を守る支援の在り方を模索し続けている。
引用文献:
- Britannica, “History of paternalism” (パターナリズム概念の歴史的展開、1971年の再浮上)
- Kumar et al., “Evolution of informed consent in clinical research”. Int J Clin Pract, 2020 (医療におけるパターナリズムから自律尊重への転換)
- Fountouki et al., “Paternalism vs Patient Empowerment: Nursing Challenges”. Int. J. Caring Sci., 2020 (看護における歴史的パターナリズムと患者の権利)
- Whitman, “An Appeal to Authority: The New Paternalism in Urban Schools”. Education Next, 2008 (教育におけるパターナリズムの退潮と復活の議論)
- Musella & Corseri, “The Paternalistic Assumptions in the Narrative of International Aid”. Int. J. Business & Social Science, 2021 (国際援助におけるパターナリズムの前提と問題点)
- Saint Joseph’s Univ., “Truth-Telling in Medicine: Cultural Dimension”. 2019 (医療における文化差とパターナリズム: 中華圏・日本・レバノンの例)
- Thaler & Sunstein, “Libertarian Paternalism Is Not an Oxymoron”. Amer. Econ. Rev., 2003 (リバタリアン・パターナリズムの定義)
- Deniz Durmuş, “Care Ethics and Paternalism: A Beauvoirian Approach”. Philosophies, 2022 (西洋中心的ケアが孕むパターナリズムへの批判)
- Lydia et al., Contributory factors to the evolution of the concept and practice of informed consent in clinical research: A narrative review, 2020
- Miguel Bedolla, The Patient’s Bill of Rights of the American Hospital Association: a reflection, 1990