テクノ封建制をめぐる学術的議論の展開
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ヤニス・バルファキスの「テクノ封建制(Technofeudalism)」概念に関する議論の展開を調査しまとめした。
はじめに
ヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)によって提唱された「テクノ封建制(Technofeudalism)」概念は、近年のデジタル資本主義の変容を説明する試みとして国際的に議論を呼んでいる。バルファキスは、グーグルやアマゾンといった巨大プラットフォーム企業が市場を支配し、従来の開かれた市場原理や資本主義の基盤であった 「市場」と「利益」 を内部から崩壊させていると主張する。彼は、資本そのものが変異し「クラウド資本(cloud capital)」と化することで、 資本主義の宿主を殺してしまった とまで述べている。この新たな体制下では、デジタル空間におけるプラットフォームが 私有化された「封土」 のように機能し、そこではもはや市場競争ではなくプラットフォーム支配によるレンタル収益(地代)こそが中心原理となっているとされる。つまり、クラウド資本の所有者がデジタル領域の 「領主」 となり、従来の産業資本家はその家臣(vassals)へと格下げされ、一般ユーザーはプラットフォームに縛り付けられた 「農奴」 へと転化しているというのである。バルファキス自身、この状況を「資本主義はすでに終焉を迎え、(…)巨大テック企業が人々を支配する『テクノ封建制』が始まっている」状態であり、「テック企業はデジタル空間の『領主』となり、『農奴』と化した私たちユーザーから『レント(地代・使用料)』を搾り取っているのだ」と表現している。本稿では、 2020年以降に発表された学術研究 を中心に、この「テクノ封建制」概念をめぐる議論の展開を検討する。まず、この概念の思想的・理論的背景と既存理論(マルクス主義経済学、プラットフォーム資本主義論、監視資本主義論など)との関連を整理する。次に、テクノ封建制という枠組みに賛同・支持する論者たちが提示する理論的根拠や実証的エビデンスを概観する。さらに、それに対して批判的立場を取る論者たちがどのような論点から異議を唱えているか、特に「資本主義の一変種にすぎない」とする主張や概念上の問題点を整理する。最後に、以上の分析に基づき、この論争における未解決の論点や今後の研究課題について論じる。
理論的背景:思想的系譜と既存理論との関連
テクノ封建制論は、現代の資本主義を捉えるいくつかの理論的潮流を背景にもつ。思想的系譜を明らかにするため、本節では関連する主な理論との接点を示す。
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マルクス主義経済学との関連: バルファキス自身「リバタリアン・マルクス主義者」を自称するように、テクノ封建制論はマルクス主義の枠組みから出発している。すなわち、歴史的に資本主義の発展段階を捉え、封建制から資本制への転換と同様に、現在進行する資本主義の質的変容を論じるものである。その際、マルクス主義内部の議論とも響き合う。たとえば、資本主義に内在する 「集中と独占の傾向」 (独占資本論)や、周辺部から中核への 「余剰吸収」 (世界システム論)といった概念を参照せずに、もはや現在の資本主義は競争原理や利潤追求よりも、政治的強制力による剰余の収奪が中心になっているという主張は、マルクス主義的問題関心から出てきたものと言える。実際、エフゲニー・モロゾフはテクノ封建制の議論について、左派による「封建性」というモチーフの濫用は「資本主義を本来の分析視角から捉え直すことを放棄し、腐敗や退廃といった道徳的言語に訴えるものだ」と批判している。これは裏を返せば、テクノ封建制論が資本主義分析の伝統に挑戦し、新たな概念装置で現状を把握しようとしていることを示唆する。
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プラットフォーム資本主義論との関連: テクノ封建制は、プラットフォーム資本主義(platform capitalism)論から多大な示唆を受けている。プラットフォーム資本主義論とは、ニック・スルニチェク(Nick Srnicek)らによって提唱された分析枠組みで、現代経済における主要企業がプラットフォーム(デジタル基盤)を通じてデータ収集・分析とネットワーク効果を駆使し、新たな価値創出と市場支配を行っているとするものである(Srnicek 2016)。スルニチェクはこれを資本主義の新たな蓄積体制(ポスト・フォーディズム後の段階)として位置づけたが、依然として 「資本主義の内部変化」 として論じた。テクノ封建制論はこのプラットフォーム企業の台頭を重視する点で共通するが、踏み込み方が異なる。すなわち、「プラットフォーム資本主義」が依然 資本主義の枠内 での変容と見るのに対し(例えばジェレミー・ギルバートはプラットフォーム資本主義を新たな 「蓄積体制の転換」 と捉えるべきだと主張する)、テクノ封建制論は 資本主義そのものの終焉 と新体制の出現を唱える点で理論的射程が大きい。この違いは後述する支持・批判の論点にも表れている。
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監視資本主義論との関連: ショシャナ・ズボフ(Shoshana Zuboff)の「監視資本主義(Surveillance Capitalism)」論もまた、テクノ封建制概念と親和性が高い。ズボフは2010年代以降の巨大テック企業が、ユーザーの行動データを 「無料の原材料」 として隠密裡に収奪・解析し、それを予測商品化する新たな経済秩序を築いたと論じた。彼女はそれを「監視資本主義」と名付け、従来の産業資本主義とは異なる脅威的な形態であると警鐘を鳴らした(Zuboff 2019)。この理論はバルファキスの議論と同様に、グーグルやフェイスブックなどプラットフォーマーによるデータ収奪と人間経験の商品化を重視しており、技術による 人間の従属(奴隷化) という点で中世的な比喩も交えられている。しかしズボフはあくまでそれを「資本主義」の新たな衣として論じ、体制名に“資本主義”を留保している点で、バルファキスとは立場を異にする。つまり、監視資本主義論もテクノ封建制論も現代のデジタル経済の 収奪的・独占的性格 に注目するが、一方は資本主義の自己変容、他方は資本主義の 脱皮 と捉える違いがある。
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「新たな封建制(ネオ封建制)」概念との関連: テクノ封建制論は、より広い「ネオ封建制(neo-feudalism)」論の文脈にも位置づけられる。実際、保守派論者から左派理論家まで、近年「現代は新たな封建制に回帰しつつある」との指摘が相次いだ。代表的なのはジョエル・コトキン(Joel Kotkin)の著書『ネオ封建制の到来』(2020年)で、彼はシリコンバレーの「覚醒した技術寡頭(woke techno-oligarchs)」が中産階級を圧迫し中世的身分格差を再現しつつあると論じた。またグレン・ワイル(Glen Weyl)とエリック・ポズナー(Eric Posner)は『ラディカル・マーケッツ』(2018年)の中で、ビッグテックの台頭によって生じた非競争的な状況を指して「テクノ封建制」という語を用い、「それはかつて封建制が教育取得や土地改良を阻害したように、個人の発展を阻害する」と批判している。このように、左右を問わず「封建制」のメタファーが乱立する状況に対し、モロゾフは 「左派と右派がテクノロジー支配の現実を前に奇妙な合意に達し、資本主義の終焉後に到来するものはユートピアではなく悪夢(ディストピア)だと口を揃えている」 と指摘する。バルファキスのテクノ封建制概念は、この「新封建制」論争に左派・マルクス主義の立場から参加したものと位置づけることができる。その際、古典的マルクス主義の生産様式論に則って 「資本主義から封建制への逆行」 という大胆な歴史的転換を仮定する点に特徴がある(後述のように、これが支持者・批判者の争点になっている)。
以上のように、テクノ封建制論はマルクス主義的歴史観に根差しつつ、プラットフォーム経済や監視資本主義の分析を取り込み、「ネオ封建制」という広範な社会批評の文脈にも関与して生まれてきた複合的概念である。では、この概念に肯定的な評価を与える論者たちは、どのような根拠から現状を「資本主義からの断絶」とみなしているのだろうか。次節では、支持的立場の議論を検討する。
肯定的立場:テクノ封建制への支持とその根拠
テクノ封建制の概念を支持・採用する論者は、現代経済の諸相に封建制的特徴が現れていると指摘し、資本主義の枠組みでは説明しきれない質的変化が起きたと主張する。彼らの議論のポイントを整理すると以下のようになる。
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(1) 巨大プラットフォームによる市場原理の形骸化: 支持派は、AmazonやGoogleといったプラットフォーム企業が市場そのものを内部に抱え込み、価格形成や競争メカニズムを恣意的に操作していると論じる。例えば、Amazonでは自社の「buy box」アルゴリズムによって売り手と買い手のマッチングが制御され、Amazonの意に沿わない価格設定をする業者の商品は事実上排除される。またGoogle検索結果でも、自社に有利な情報や提携先を優先表示し、新規参入者が可視化されないよう操作できる。これらは公開市場における自由競争という原則と相容れず、まるで領主が領地内の交易を統制するような 「疑似市場」 が形成されているとバルファキスは述べている。バルファキス自身「市場はデジタル取引プラットフォームに取って代わられた。それらは見かけは市場のようだが実際には市場ではなく、むしろ封土と見なすべきものだ」と指摘する。このように、プラットフォームの私的領域が経済の中枢を占め、 価格メカニズムや競争原理が中心的役割を喪失 している点を、支持派は資本主義からの転換の証左と捉える。
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(2) 利潤から地代への収奪形態の変化: テクノ封建制論によれば、プラットフォーム領主たちはもはや古典的な意味で利潤(profit)を追求していない。代わりに彼らが求めるのは 「レント(地代)」 であり、ユーザーや事業者がプラットフォームやクラウド基盤にアクセスするために支払う利用料・手数料という形で収奪が行われる。具体例として、Appleは自社のApp Store経由で行われるアプリ内課金に一律30%もの手数料を課し、サードパーティ企業の売上から多額の取り分を徴収している。Appleはその取引に対して何ら生産的貢献をしていないにもかかわらず、この 「30%の貢納金」 はまさに領主が領民に課す年貢の如き性質をもつと評される。同様にAmazonも、マーケットプレイス出店者に対して商品の保管・発送等の名目で売上の半分以上を手数料として差し引き、場合によっては人気商品を模倣・自社生産して元の業者を淘汰するなど、収奪と支配を強めている。バルファキスは、このように 利益追求型の産業資本 から 地代収奪型の封建的資本 への転換が起きたとし、「利益という資本主義のエンジンは、先行する封建制のエンジン=地代に置き換えられた」と述べている。そして「クラウド地代 (cloud rent)」とも呼ぶべきこの収益形態が経済の核となった結果、「もはや実権は古典的資本の所有者ではなく、クラウド資本の新たな封建領主の手中にある」という。
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(3) 無料労働・データ収奪による新たな農奴制: 支持論者はまた、ユーザーや労働者の地位変化にも着目する。テクノ封建制のもとでは、多くの人々がプラットフォーム上で 「見えざる労働」 を強いられていると指摘される。典型例として、SNS利用者はプラットフォーム上での活動(投稿、閲覧、リアクション)を通じて膨大なデータをプラットフォーム企業に提供するが、これに対する対価は支払われない。ユーザーの行動データや注意力それ自体が 剰余価値の源泉 となり、プラットフォームは広告配信やアルゴリズム訓練にそれを活用して利益(あるいはレント)を得る。この構図は、中世封建社会で農奴が領主に貢納や賦役労働を差し出していたことに類比される。バルファキスは「我々は皆、再び農奴の地位に戻りつつある。クラウド領主の富と権力を増大させるため、賃労働として働く機会を得た時でさえ、その合間に我々の無給労働(=データ生成活動)を提供しているのだから」と述べ、ユーザーの処遇を喝破している。またギグ・エコノミーの拡大もこの文脈において語られる。ウーバーやフードデリバリーなどのプラットフォーム労働者は、一見自営業のようでいて実質的にはプラットフォームによる細かな労務管理下に置かれ、労働法の保護を受けられない 「デジタル日雇い農奴」 とも言うべき存在である。このように、現代のテクノ経済下で広がる 労働の非対称性・従属状態 を指摘し、それを資本主義的賃労働関係ではなく封建的な隷属関係になぞらえることが、支持派の重要な論点である。
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(4) 国家権力・政治との癒着:超国家的な領地主義: 封建制の特徴の一つは、中央集権国家の弱体化と諸領主による分権的支配であった。テクノ封建制論の支持者は、現代もまた国家権力よりも企業権力が上位に立つ状況が進行していると論じる。具体的には、巨大テック企業が国家よりも潤沢な資金と技術力を背景に公共領域へ浸透し、政策決定に影響力を行使している現実が挙げられる。たとえば、各国政府がデジタル市場の独占を規制しようとしても、ロビー活動や法的措置によってビッグテックはそれを骨抜きにしてしまう。また一部の論者は、米国におけるビッグテック企業の覇権が地政学的な様相さえ帯びており、米政府自体がこれら企業を 「民間領主」 として利用しつつ他国(特に中国)の台頭を抑えようとしていると指摘する。バルファキスも、クラウド資本の支配下で 国家の規制力が著しく低下 し、市場や通貨政策を通じた民主主義国家の伝統的統治が空洞化していると警告する。国家を超えたテック帝国の隆盛は、ウェストファリア的主権国家体系の解体、ひいては近代社会契約の前提条件の崩壊にも通じる問題であり、まさに中世封建制的な「私人による公共支配」の復活だと論じられる。以上(1)~(4)の点に示したような経済・社会の現状認識に基づき、テクノ封建制論の支持者たちは「我々は既に資本主義から別の体制に足を踏み入れている」という主張を展開している。彼らはこの概念を用いることで、現代のデジタル経済がもたらす不公正と支配の構造を暴き、資本主義批判をアップデートしようとしていると言えよう。
以上の支持的議論に対し、他方では テクノ封建制という見立てに否定的・懐疑的な声 も多い。次節では、そのような批判的立場からの主張と論点を整理する。
批判的立場:テクノ封建制論への異議と資本主義連続論
テクノ封建制という概念に対しては、「現状を過度に新奇なものと捉えすぎであり、本質的には 依然として資本主義の延長線上 にある」とする批判的立場が存在する。これらの論者は、封建制という比喩はミスリーディングであり、現在の体制を正確に把握する妨げになると指摘している。主な論点を以下にまとめる。
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(1) 資本主義の基本原理は健在: 批判派の第一の主張は、「市場競争」「利潤動機」といった資本主義を規定する基本原理が決して消滅していないという点である。ヘンリー・スノウはバルファキスの著書を論評し、「バルファキスの指摘する “クラウド資本” の台頭という現象自体は鋭い洞察だが、それをもって資本主義の終焉と見るのは誤読である。 敵は依然として資本主義だ、それも新たな様相を呈した資本主義なのだ」と述べている。具体的には、テクノ封建制論では広告ビジネスなどプラットフォームの主要収益は「市場によらないレント」だとするが、スノウは「広告宣伝こそ競争的な市場そのもの」であり、実際グーグルやメタは広告主を獲得するため互いに市場競争を行っていると反論する。またバルファキスは「ユーザーはTikTokに逃れうる“自由”なセーフではない」と示唆したが(まるで領主に縛られた農奴のように)、実際には若年層ユーザーがFacebookからTikTokへ大規模に移動したこと自体、 プラットフォーム間の競争 が働いている証拠だと指摘される。「コンテンツの質」で競うことも価格競争と同様に市場競争の一形態であって、プラットフォーム同士がユーザー獲得合戦を繰り広げる現状は、封建領主が固定的な農奴から年貢を取る閉鎖経済とは異なるというのである。批判派にとって、 資本による競争的蓄積(Accumulation)が持続している限り資本主義は機能している のであり、GAFA同士が熾烈な研究開発競争・市場拡大競争を続け莫大な投資を行っている事実は、彼らが依然「技術革新による蓄積」という典型的資本主義的行動原理に従っていることを示す。エフゲニー・モロゾフも「もしアルファベット(グーグル)やアマゾンが何十億ドルものR&D投資を続けているのだとしたら、それは彼らが依然『革新を通じた蓄積』を狙っている証左であり、それこそ資本主義的行動原理に他ならない」と述べ、テクノ封建制論の「停滞・収奪のみが支配する経済」という描写に疑義を呈している。
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(2) 封建制との本質的相違: 批判論者はまた、封建制という歴史的生産様式と現代の類似を強調しすぎることへの警戒を表明する。ニコラス・ゲインは論文「 Capitalism is capitalism, not technofeudalism(資本主義は資本主義であってテクノ封建制などではない) 」にて、この概念の妥当性を体系的に批判している。ゲインは第一に、バルファキスの理論を検討した上で「資本主義は封建制の復活によって取って代わられたのではなく、新たな形態へと変容しつつあるだけだ」と論じる。つまり前節で支持派が指摘した諸現象(独占・租税的収奪・国家の無力化など)は、新しい 資本主義の相(phase) として説明可能であり、わざわざ「封建制」と名付ける必要はないという立場である。第二にゲインは、バルファキスが自著で提示した処方箋が「国家の規制力を放棄し、消費者によるボイコットなど市場外の方法で巨大企業の力を削ぐ」というものであった点を批判する。彼は「バルファキスは国家による規制というソーシャル・デモクラシー的アプローチに背を向け、皮肉にも 市場(消費者行動)を通じて ビッグテックに打撃を与える道を説く。しかし同じ彼はテクノ封建制下ではもはや市場も利潤も中枢でなくなったと主張していたはずで、この点は自己矛盾に陥っている」と指摘する。すなわち、封建制と見るあまりに 従来の資本主義的戦略(民主国家による規制や再分配) を諦めてしまうことこそ問題であり、現状を「新たな資本主義の展開」と位置づければこそ有効な政策的対応も可能だという示唆である。
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(3) 「独占資本」論による説明: 批判派の中には、現在の現象はマルクス主義の従来からある概念装置で説明可能だとする者もいる。たとえばビル・ミッチェルは「新封建制という議論には懐疑的だ。というのも、 資本主義はもともと独占へ向かう傾向 を内包しており、現在我々が目にしているビッグテックの支配もその延長線上に位置づけられるからだ」と述べる。ミッチェルは、バラン&スウィージーの『独占資本』(1966年)を引き合いに出し、すでに20世紀半ばに大寡占企業が市場を牛耳り価格設定力を得ていたこと、過剰な利潤を維持するため国家からの受注や補助金といった 「公的セクターへの寄生」 が必要になっていたことを指摘する。これは現代のGAFAが政府調達や租税回避を通じて利益を膨らませている状況に酷似しており、「我々は既にとっくにその局面を経験していたのだ」と言うのである。こうした見解に立てば、デジタル化によって収奪の様式が多少変容したとはいえ、 「独占資本主義」あるいは「金融資本主義」 という既存概念で充分に把握可能な発展形態であって、封建制なる新概念を持ち出す必然性は低いことになる。また、エレン・メイクシンズ・ウッドらマルクス主義史家の議論に依拠しつつ、ジョディ・ディーンは「モロゾフは封建制と資本制の差異を矮小化しすぎている」としつつも、「だからといって現状を安易に封建制へ回帰したとみなすべきではない」と慎重な立場を示している。ディーン自身は前述のように封建的アナロジーに理解を示しつつも、マルクス主義の観点から見て生産関係それ自体の変質(賃労働から農奴的従属への回帰)が本当に起きているのかを吟味する必要があると説く。要するに、批判派は 「テクノ封建制」という診断が歴史の連続性を過小評価している 可能性を指摘し、従来の資本主義論の延長で分析を深めるべきだと主張している。
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(4) 理論的厳密さと「概念上の危うさ」: 更に概念そのものへの批判もある。モロゾフは『テクノ封建的理性批判』(2022年)において、左派が安易に「封建制」なるレトリックに飛びつくことは「知的弱さ」を示すと手厳しく論じた。彼によれば、「資本主義を理解するためにわざわざ封建制の道徳言語(腐敗や退化といった隠喩)を持ち出す必要はなく、そうすることはむしろ資本主義への批判力を曇らせる」。実際問題として、デジタル経済における諸現象は必ずしも中世封建社会の諸特徴と一致しない。封建制において核心的だった 人格的支配関係 (領主と農奴の主従関係)や 身分制 は、現代では資本と労働の非人格的・流動的関係に置き換わっているし、土地所有が富の基盤だった封建社会と異なり、現代では依然として工業生産や商品市場が大きな役割を果たしている。モロゾフは、デジタル時代の特徴である データの収集・独占 や 国家による富の再配分の上方化 (税制の富裕層優遇など)は確かに存在するものの、「それらはいずれも“資本主義の常套手段”の延長にすぎず、わざわざ封建制という影を追いかけなくとも説明できる」としている。彼はむしろ「封建制」という語の使用は、現在の資本主義を 過度に怪物化 し、「かつての資本主義(競争的で成長志向だった時代)はまだマシだった」といった誤解を招きかねないと警鐘を鳴らす。これは「テクノ封建制」という呼称が、皮肉にも 古き良き資本主義 像を立ち上げてしまい、そこへの郷愁を誘発するリスクを指摘したものと言える。他方でミッチェルも同様に、「テクノ封建制という物語に飛びつくと、肝心の敵である資本主義への注目が逸れてしまう」と述べる。彼は「ITセクターの大企業は本質的に今なお資本主義的である」と強調し、テクノ封建制論が「資本主義はもう終わった」という印象を与えることは政治的にも有害だと批判する。さらに、「デジタル貴族によって旧来のブルジョワジーが完全に打倒・代替されたわけではなく、単に既存資本家階級がデジタル監視技術を採用して高次元に抽象化しただけだ」と指摘する者もいる。つまり、 技術革新によって資本階級が人々から見えにくくなったからといって、それが新たな階級(「テクノ貴族」)に置き換わったわけではない との批判である。このような理論的厳密さを求める立場からは、「封建制」というラベルは今日の資本主義の特殊性を鋭くえぐるというより、むしろ分析を混乱させるレトリックに過ぎない、と結論づけられる。
以上、テクノ封建制論への批判的主張を見てきた。総じて批判派は、テクノ封建制という概念が描き出す断絶よりも 連続性 に重きを置き、現在の問題を「資本主義の新たな段階」として捉えるべきだと主張している。では、この論争を踏まえて残る課題とは何か。最後に、未解決の論点と今後の研究課題を述べる。
未解決の論点と今後の研究課題
テクノ封建制をめぐる肯定・否定双方の議論から浮かび上がるのは、 現代経済の性格をどう理論的に把握すべきか という根本問題である。現時点では、この問いに明確な決着はついておらず、今後の研究に委ねられた論点がいくつか存在する。
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(1) 資本主義の定義と境界に関する理論的整理: 第一に、資本主義と封建制を分かつ理論的な基準について更なる検討が必要である。現代が資本主義の範疇に留まるのか否かは、どの特徴を決定的とみなすかによって判断が変わりうる。モロゾフやディーンが着目したように、 生産物の獲得手段(市場交換 vs. 身分的強制) や 労働者の地位(賃金労働者 vs. 隷属民) といった軸が考えられるが、デジタル経済ではこれらが複雑に交錯している。たとえばユーザーは形式上「自由」だがデータを事実上取り上げられている点で旧来の賃労働とも異なる。 「収益源が利潤か地代か」 という基準も、広告収入のように市場競争と独占的課金の要素が混在する場合に一義的判定が難しい。このため、資本主義の定義を狭く取りすぎれば変化を見逃し、広く取りすぎれば何も変化がないように見えてしまう恐れがある。Cedric Durandは、ブレンナー的な狭義の資本主義(生産手段の私有に基づく強制的蓄積)とブローデル的な広義の資本主義(適応自在な商業的世界システム)の両極を踏まえつつ、その中間に位置する分析枠組みを提案している。このようなアプローチにより、デジタル経済の特殊性を捉えつつも資本主義の歴史的文脈に位置づける理論的精緻化が、今後の課題と言えよう。
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(2) 実証研究:デジタル経済の収奪構造の測定: 第二に、テクノ封建制論・批判双方の主張を検証するための実証研究が求められる。例えば、現在どの程度「利益」より「レント」が主要企業の収益を支えているのか、 計量的データ に基づく分析が必要である。プラットフォーム企業の財務データや市場構造を分析し、売上に占める独占的手数料収入の割合や、競争要因の影響度合いを明らかにすることが考えられる。またユーザーや労働者がプラットフォームにどれだけ従属し脱出困難か(例:スイッチングコストやロックイン効果の大きさ)についての調査も有用だろう。スノウが指摘したようなユーザー移動の実例(Facebook→TikTok等)は競争の存在を示唆するが、一方でAmazonやGoogleのように包括的支配力を持つ企業では利用者が「選択の余地がない」状況も確認されている。こうした 独占度合いの実態 や、クラウドサービスへの依存度(他企業がインフラとしてビッグテックに支払うコストなど)を定量化することで、テクノ封建制の主張する「経済中枢の封土化」の進展度を測れる可能性がある。さらに、国家とテック企業の関係についても、ロビー支出額や規制の網の抜け穴の分析、各国法制度の比較研究を通じて、どこまで国家主権が企業権力に従属しているのか実証することが課題となる。
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(3) 比較制度論的研究: 第三に、世界の地域ごとの経済体制を比較する視点が重要である。バルファキスは米中双方でテクノ封建制化が進んでいると述べたが、批判者は「中国は事情が異なる」と指摘する。中国ではプラットフォーム企業に対し国家が強い統制を及ぼし(近年のアリババやテンセントへの規制強化が例)、データも国家管理の下に置かれつつある。この点、米国型の 「民間領主」 による統治とは異なるモデルが存在する可能性がある。また欧州連合はGDPRなどでデータ保護規制を強化し、プラットフォーム独占に対抗する試みを続けている。こうした地域差を踏まえると、真に普遍的な意味で資本主義が死んで封建制化したと言えるのか、あるいは地域ごとに異なる資本主義の様式が展開しているだけなのかを評価しなおす必要がある。比較制度論や国際政治経済の観点から、 デジタル時代の複数の資本主義モデル (米国型、市場社会型、中国型国家資本主義など)を総合的に分析する研究が期待される。このことは、テクノ封建制論が提示する像がどの程度一般化できるかを検証する上でも不可欠であろう。
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(4) 政策・対抗戦略の検討: 最後に、現在の状況への対抗や改革の方向性についても議論が深化する余地がある。テクノ封建制論に立てば、既存の資本主義的手法(反トラスト法や再分配政策)は効果が薄れ、より急進的な介入(プラットフォームの解体、データ共有の義務化、協同組合型プラットフォームの育成など)が必要だという議論につながるかもしれない。一方、批判派は資本主義の延長と見る以上、伝統的な民主的統制(独占禁止法の強化や労働者の交渉権拡大、富の再分配)が依然有効な解決策だと考えるであろう。このズレは単なる概念上の違いに留まらず、政策提言や社会運動の方向性にも影響するため、理論研究と併行して 現実的な対応策の検証 が求められる。例えば、「データの公共財化」や「プラットフォーム労働者の組合化」といった具体策が封建的支配を削ぐ鍵となりうるのか、あるいはゲインが批判したように 消費者としての行動 に解決を委ねるのは限界があるのか、といった点について議論を深める必要がある。今後の研究では、テクノ封建制か否かという体制認識の論争と並行して、 望ましい制度設計や規制の在り方 に関する実証的・理論的分析が一層重要になるだろう。
おわりに
本稿では、バルファキスの提唱したテクノ封建制概念をめぐる近年の学術的議論を概観した。支持的立場からは、デジタル経済における市場原理の空洞化や収奪形態の変質、階級関係の再編(新たな「領主」と「農奴」の出現)に注目し、それを資本主義から別個の「テクノ封建制」という体制への移行と評価する見解が示された。一方、批判的立場からは、これらの現象は資本主義の歴史的傾向(独占化・金融化)の延長上にあり、概念上も封建制との類比には慎重であるべきだとの反論が提示された。両者の争点は、結局のところ 「現代のデジタル経済を資本主義の新段階と見るか、それとも資本主義を超えた異質の体制と見るか」 という根本的な認識の相違に行き着く。現状では、この問題に決着はついておらず、むしろ本稿で触れたような理論的・実証的課題に取り組む中で、次第にその答えが探究されていくと考えられる。
21世紀の経済を理解するために、マルクス主義的な歴史認識を参照しつつ大胆な概念装置を提起したテクノ封建制論の意義は大きい。それは資本主義の未来像をめぐる想像力を刺激し、「資本主義の終わり」を公然と論じることをタブーでなくした点で評価できる。しかし同時に、批判派が指摘するように、この概念が果たして的確な分析道具となりうるのか、慎重な検証も必要である。資本主義が死んだのか、それとも奇妙な仮面を被って存続しているのか――その問いに答えるためには、今後も理論と実証の両面から「テクノ封建制」をめぐる探究を深めていくことが求められている。
参考文献:
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