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ブルシット・ジョブ、それ以降

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序論

(注意)本記事は生成AIによって調査・生成されたものであり、正確性を保証するものではありません。参照にあたっては、リンク先のサイトの情報も併せて参照下さい。

人類学者デヴィッド・グレーバーは2013年の小論「ブルシット・ジョブの現象について」で、本人でさえ「存在する意味がない」と感じる仕事が現代に蔓延していると指摘し、この概念はたちまち世界的な反響を呼びました。グレーバー自身も予想しなかった反応として、エッセイは100万以上の閲覧を集め、ロンドンの地下鉄車内広告がその引用文でゲリラ的に差し替えられるなど共感の声が広がりました。2018年には著書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』として理論を展開し、同書は各国語に翻訳されビジネスパーソンから若者まで幅広い層の「あるある」として受け止められました。グレーバーの主張する「ブルシット・ジョブ(くだらない仕事)」とは、 「賃金が支払われる雇用形態でありながら、あまりに無意味・不要・有害で、従事者自身ですらその存在を正当化できないような仕事」 のことです。彼はこの問題がテクノロジーの進歩による週15時間労働の夢が実現しなかった一因であり、現代社会の生産性にも深刻な矛盾を突きつけていると論じました 。本レポートでは、「ブルシット・ジョブ」概念提唱以降の欧米圏における反応を、(1)ビジネス・労働現場、(2)学術界の二領域に分けて検証し、支持・批判・派生の三つの視点から考察します。

【参考】

1. ビジネス・労働現場における反応

1.1 労働者・若年層の共感と支持

グレーバーの提起した問題は、多くの労働者、とりわけ若い世代の共感を呼びました。実際、彼のエッセイがバイラルに広まったこと自体、オフィスで「自分の仕事は世の中になくても困らないのでは」と疑問を抱いていた人々が少なくなかった証と言えます。日々膨大な時間を報告書作成や不毛な会議に費やし、「何のために働いているのか」と感じていた従業員にとって、グレーバーの分析は自身の鬱屈を言語化したものとして受け入れられました。こうした感覚はミレニアル世代・Z世代にも広がっており、 「仕事に目的や社会的意義を求める」 傾向が極めて強くなっています。実際、デロイト社の世界調査(2024年)でも「Z世代とミレニアル世代のほぼ全員が、やりがいのある目的志向の仕事を求めており、自分の価値観に合わない仕事は平気で断る」と報告されています。グレーバーの提起した「無意味な仕事に対する嫌悪感」は、この世代のキャリア観(お金より意義を重視する志向)とも合致し、近年の 「意義のない仕事なら辞めてしまおう」 という風潮――たとえばコロナ禍以降の「大量退職(グレート・レジグネーション)」や静かな退職とも称される働き方見直し(いわゆるQuiet Quitting)――にも通底しています。若年層を中心に、仕事に自己実現や社会貢献を求める声が高まったことで、「自分の仕事はブルシットではないか?」と問い直す動きが文化的メインストリームに入ったのです。

【参考】

1.2 労働組合・労働運動への影響

労働組合や労働運動も「ブルシット・ジョブ」論から刺激を受け、労働のあり方を見直す契機としました。ただしその受け止め方は一様ではありません。伝統的に組合運動は失業に反対し「雇用創出(Jobs)」を最優先のスローガンとしてきた経緯があり、どんな仕事であれ「Jobs」を増やすこと自体が善とされてきました。実際、1963年のキング牧師によるワシントン大行進も公民権だけでなく「Jobs(仕事)」を掲げざるを得なかったように、組合の支持を得るには常に「雇用を増やせ」という要求が不可欠だった歴史があります。このため、一部の急進的な労働活動家は1960年代以降、「単に仕事の数を増やすことを目的化する組合は問題の一部だ」と批判してきました。グレーバーの主張もまさにその延長線上にあり、「社会的に無益な仕事を無理に存続させるより、労働時間の短縮やベーシックインカムの導入によって人々を本当に価値ある活動に振り向けるべきだ」という議論を後押ししました。事実、グレーバーは「不要な仕事は社会からなくしてしまって何の支障もなく、むしろその方が芸術や文化、気候変動対策に至るまであらゆる面でプラスになる」と述べています。

他方で、組合の立場から見ると、グレーバーの議論にはジレンマもあります。仮に「半分の仕事が不要」と結論づけその廃止を訴えた場合、組合は自ら組合員の雇用を奪う主張をすることになりかねず、現実には困難です。そこで近年の労働運動では、直接「ブルシットな仕事を無くせ」と要求するよりも、「本当に社会に必要不可欠な仕事(ケア労働やエッセンシャルワーク)にもっと賃金やリソースを割け」という形で議論が展開しました。グレーバーは労働者階級を「世話をする階級(caring classes)」と捉え直し、ケアや清掃・物流など社会を支える仕事ほど低賃金で軽視され、逆に社会的には無益なホワイトカラーほど高給という逆転現象を批判しました。これは新型コロナウイルス流行下で一層明白になった現象です。都市封鎖が行われた2020年、 「エッセンシャルワーカー」 と呼ばれた医療・物流・ゴミ収集などの労働者が命懸けで社会を維持した一方、オフィスで高給を得ていた多くのホワイトカラー労働者は在宅勤務となり、そのうち「1日に10~15分程度しか本当にやることがなくなった」者さえ少なくありませんでした。それでも社会は大きな混乱もなく回ってしまったのです。この事実は、「高度に支払われていたオフィス仕事の大半が実は無くても困らないものだった」ことを白日の下に晒し、グレーバーの指摘した 「社会的に無価値な仕事の氾濫」 を裏付けるものとして受け止められました。皮肉にも、危機の中で人々は 「本当に必要な仕事とは何か」 を問い直し、エッセンシャルワーカーへの称賛とともに、そうでない仕事の価値に懐疑的な視線を向け始めたのです。

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1.3 派生的な動きと企業社会の対応

「ブルシット・ジョブ」論は、働き方改革や企業文化にも影響を及ぼしました。従業員の意欲低下や静かな退職の増加を目の当たりにした企業は、仕事に意義を見出せないことが原因である可能性を認識し始めています。いくつかの企業では、会議の削減や官僚的手続きの簡素化といった 「社内ブルシット業務」の見直し に着手する動きも報告されています(例:不要な社内報告の廃止、形骸化したミーティングの撲滅など)。これはグレーバーの分類で言う「ボックスタッカー(形式的な書類作成要員)」や「タスクマスター(不要な管理職)」的な仕事を減らす試みと言えます。また、経営側も優秀な若手人材の確保には企業ミッションの社会的意義が重要と認識するようになりました。実際、若い応募者ほど「御社の事業には社会的価値があるのか?」と問う傾向が強くなっており、スタートアップ企業やNPOなどは「世界を良くする使命」「社員が誇りを持てる仕事」といったスローガンを掲げて人材を惹きつけています。もっとも、こうした流れには批判的な見方もあります。エリック・ベイカーは、企業が「意義ある仕事」を提供すると称して若者の理想主義を取り込み、結局は新手の自己啓発的労働倫理を植え付けている可能性を指摘しています。つまり、カウンターカルチャー的に生まれた 「仕事に意義を求める」 批判精神さえも、企業家精神(アントレプレナーシップ)の文脈に回収され、「我が社で世界を変えよう」というメッセージにすり替えられうるという指摘です。このように、企業社会は一部で自己改革を試みつつも、一部では「意義」追求の風潮を都合よくマーケティングに利用する動きも見られ、労働者の側の期待とのズレも指摘されています。

一方、「ブルシット・ジョブ」概念の普及は労働者側の自発的なムーブメントも生みました。その代表が米国のオンライン掲示板Reddit発の 「Antiwork(反仕事)」 コミュニティで、数百万のフォロワーを集めています。このコミュニティのガイドにはグレーバーの『ブルシット・ジョブ』が推薦図書として挙げられており、日々寄せられる「上司に無意味な仕事を強いられた」「やりがいの搾取に耐えられない」といった投稿に対し、ユーザー同士が共感やアドバイスを送り合っています。かつては声にならなかった職場の不満が、このように可視化・共有されることで、働き方に対する意識が変化しつつあります。総じて、欧米の労働現場では「ブルシット・ジョブ」への怒りや嘲笑がカルチャーとして定着しつつあり、労働者の側から 「もっと人生の意味を感じられる仕事を」 という要求が強まったと言えるでしょう。それは賃金や雇用保障と並んで、労働運動・雇用交渉の新たな論点になりつつあります。

【参考】

2. 学術界における反響

2.1 支持的な研究・理論の展開

グレーバーの問題提起は学術界でも大きな関心を集め、社会学・経済学・労働研究などの分野で追試や理論的検討が行われました。中でも画期的だったのは、チューリッヒ大学の社会学者Simon Waloによる定量研究(2023年)です。Waloは米国の労働者1,800人超の職業と「自分の仕事が社会に役立っていると感じるか」の意識との関連を分析し、 約19% の労働者が「自分の仕事は社会的に有益ではない」と感じていると報告しました (ref)。さらに注目すべきは、職務内容の単調さや裁量の有無など労働環境の違いを統計的に調整しても、それでも職業種類による差が明確に現れた点です (ref)。グレーバーが名指しした 「金融・販売・管理職」 などの業種では、他の職種に比べて2倍近く「自分の仕事は無益だ」と感じる人の比率が高く、逆に看護師や教師など明らかに社会貢献度の高い職種ではそのような自己評価が顕著に低いという結果が得られました (ref)。この研究は「グレーバーの主張に初めて定量的裏付けを与えたもの」だとされ (ref)、従来「主観的すぎる」と批判されがちだったブルシット・ジョブ論に科学的根拠を与えたとして支持的に受け止められています。もっとも、この研究でも「法務(弁護士)」だけは例外的で、社会的無意味さの自覚が統計的に有意には高くないなど (ref)、全ての業種が単純に割り切れるわけではない点も示されています。

定量分析以外にも、質的・理論的なアプローチでブルシット・ジョブ現象を探る研究が相次ぎました。例えば教育社会学や高等教育研究の分野では、大学の官僚化により教員が煩雑な書類仕事に追われて本来の教育・研究に割ける時間が減っているという 「仕事のブルシット化」 が問題視されました (ref。これはグレーバーが述べる「本来意義ある仕事へのブルシット的要素の侵食」に他ならず、医療・介護・教育など 意義ある仕事ほど非生産的な事務作業が増えている という現象として分析されています (ref)。また哲学や倫理学の領域でも、仕事の意味についての古典的問い(なぜ働くのか、何のための労働か)にグレーバーの議論を絡め、「有意義な仕事(Meaningful Work)」の定義やそれを人間が求める理由について論じる動きが見られます。たとえば、「人間は本来社会に貢献したい生き物であり、無意味な作業に人生を費やすことは精神的な苦痛を生む」という主張は、心理学における自己実現理論やアイデンティティ論とも通じるものです。実際、グレーバーも「人々は単に生計のためだけでなく、社会にとって意味ある何かを成し遂げたいから働くのだ」と述べており (ref)、その指摘は労働の動機づけ研究(内発的動機やワークエンゲージメントの研究など)にも支持されています。さらに労働経済学や経営学の一部では、「ブルシット・ジョブの存在は市場の失敗の表れではないか」との観点から、生産性と労働配分の問題を検討する論考も出ています。市場原理では不要な仕事は淘汰されるはずだが、現実にはそうなっていないのは何故か――その問いに対し、グレーバーは著書で「政治的要因」(人々を暇にさせない統治上の目的) (ref)や「権力構造上の理由」(無意味な仕事であってもそれを管理することで権限を正当化したい層がいる)といった仮説を提示しました。この仮説自体も学術的な議論を呼び、賛同する立場からは「資本主義は効率的という神話への一石」と評価され、批判的立場からは後述のような反論がなされています。

【参考】

2.2 批判的な見解とデータによる検証

学術界にはグレーバーの主張に懐疑的な声も少なくありません。当初から経済学者やビジネス論者の中には「労働市場は基本的に効率的であり、本当に無意味な仕事ばかり増えるというのは信じ難い」とする見解がありました (ref)。グレーバーの議論は250通以上に及ぶ労働者からの手紙(体験談)に基づいており、これについて批判者は「サンプルが恣意的で偏っているのではないか」「不満を持つ人だけが声を上げただけではないか」と指摘しました。また 「無意味さ」は主観的評価に過ぎず、一人ひとりの労働者から見えていないだけで実は組織や経済全体には貢献しているのではないか、という反論もあります。たとえば企業の人事・広報・法務といった部門は、一見すると直接には生産に寄与しないように思えても、企業活動を円滑に回す潤滑油として機能しているはずだ、という主張です。この点についてグレーバーは「市場競争が万能で必要な仕事しか残らないのなら、なぜ現実にこんなにも不必要に思える職が多いのか」と問い返し、特に大企業や官僚機構では 「パーキンソンの法則」のごとく不要なポストが自己増殖する 傾向を指摘しました (ref)。とはいえ、この反論合戦は長らく定性的な域を出なかったため、学術的にはデータによる検証が求められていました。

そうした中、前述のWalo研究に先立つ2021年には、ケンブリッジ大学のBrendan Burchellらのチームがヨーロッパ労働条件調査を用いてグレーバー理論を検証しています。彼らの論文タイトルは示唆的にも「Alienation Is Not ‘Bullshit’(疎外こそあれ「ブルシット」ではない)」であり、分析の結果、 「自分の仕事が有用だと感じない」と答えた労働者は約5%に過ぎず、グレーバーが推定した20~50%という数字とは大きな隔たりがあると結論づけました (ref) (ref)。研究チームは「グレーバーの魅力的な理論は、仕事の無益さが及ぼす害悪に世間の目を向けさせた功績は大きい」が、同時に「その経験的基盤には重大な欠陥がある」と指摘しています (ref)。特に、労働者が仕事を無意味に感じる主因はその仕事それ自体の社会的価値の欠如ではなく、仕事の進め方や職場環境の問題(単調さや裁量の欠如、人間関係の希薄さ)によるところが大きいと分析されました (ref) (ref)。これは、マルクス以来の 「労働の疎外」 という概念で説明可能な現象であり、決して新奇な事象ではないという批判です。言い換えれば、「つまらない仕事」に感じられるのは資本主義下の労働一般が抱える疎外感の表れであり、本当に社会的価値がゼロの仕事がそんなに多数存在するわけではない、という主張です (ref)。この見解に立つと、解決策は各職場での裁量権拡大や人間的な職場づくりであって、仕事そのものを無くすことではない、という議論にもつながります。

さらに批判的研究者らは、グレーバーの主張する「本当に意味のない仕事が急増している」という歴史観にも異議を唱えています。実際には、大量生産時代からサービス経済への移行に伴い、確かにホワイトカラーやサービス職種が増えましたが、それらは決して「突然現れた無意味な仕事」ではなく、経済構造の変化に伴う必要な役割だという視点です。また、「仕事の社会的有用性」は時代や立場によって評価が変わり得る相対的なものだという指摘もあります。例えば、広告業や金融商品のトレーダーは一見社会に不要にも思えますが、消費社会・金融経済という現在の枠組みでは機能維持に欠かせない役割とも考えられます。グレーバーはそうした反論に対し、「現在の経済システム自体が膨大な『ナンセンスを生み出すエンジン』になっており、人々はシステムそのものへの不満を他の弱者(公務員や学者などいわゆるエリート層)への敵意にすり替えている」と批判しました (ref)。しかし、このような議論は実証というより思想的応酬の域を出ず、依然コンセンサスは得られていません。総じて、学術界では 「ブルシット・ジョブという現象は存在するが、その規模や原因については異論がある」 というのが現状と言えるでしょう。支持派は「仕事の意味」に関する重要な問題提起としてグレーバーを評価し、批判派は「誇張や主観に基づく理論」として慎重な検証を促す――そのような緊張関係にあります。ただ興味深いことに、双方が一致して認める点もあります。それは 「労働者が自分の仕事に社会的意義を見いだせないことは、本人の幸福や精神衛生に悪影響を及ぼす」 という点です (ref)。結局のところ、仕事の有意義さ(Meaningfulness)は労働研究における重要なテーマとして改めて浮上してきたと言えるでしょう。

【参考】

2.3 関連・派生した議論

「ブルシット・ジョブ」論は、単なる一過性の流行語にとどまらず、様々な派生的議論を生み出しました。まず注目すべきは 「仕事の意義(Meaningful Work)」 に関する議論の活性化です。グレーバーの著書タイトルが象徴するように、「クソどうでもいい仕事」があるということは、「意味ある仕事とは何か」を逆説的に考えさせます。心理学・経営学の領域ではここ数年、従業員が仕事に意義を感じられるかどうかがエンゲージメントや離職率に与える影響が多く研究されるようになりましたが、グレーバー理論の登場はそれに社会的インパクトの観点を加えました。単に「やりがい」や「スキル活用」という個人レベルの満足ではなく、 「自分の仕事が社会全体にとって意味があるか」 という視点が重要だと示唆した点で、彼の影響は大きいと言えます (ref)。実際、前述のWaloの研究も「仕事の社会的有用感」を測っており、これは従来の職務満足度研究にはなかった切り口でした。「社会にとって役立つ仕事をしているという実感」は、労働者の幸福度やメンタルヘルスに寄与するポジティブな要因であり (ref)、逆にそれを欠くことはグレーバーの言う 「魂への傷」(集団的精神への深い傷痕) につながりうる (ref)。このように、ブルシット・ジョブ論は 「働くことの精神的意義」 を再考する潮流を後押ししました。

また、政治哲学や経済思想の分野では、グレーバーの議論が 「脱労働(post-work)」「反労働倫理」 の議論と結びつきました。資本主義社会では働くこと自体が善とされ、「勤勉な人々(hardworking families)」が称賛されてきました (ref)。しかしブルシット・ジョブの存在は、「勤勉に働く」こと自体が目的化し本来の社会的目的を見失っているのではないかという批判に火を付けました (ref)。これは労働に対するプロテスタント的倫理観への挑戦でもあります。例えば、フランスの経済思想家トマ・クートロは「ブルシット・ジョブと労働の喪失感は民主主義の課題である」と論じ (ref)、意義のない仕事に時間を取られることが市民の社会参加や民主主義への関与を阻害していると警鐘を鳴らします。また、「すべての労働者には有意義な仕事と尊厳を享受する権利がある」という議論も展開され (ref)、単に雇用数やGDPといった指標では測れない労働の質的側面を重視すべきだとの主張が強まっています。労働経済学的には、ブルシット・ジョブの存在は市場の資源配分が社会的最適と乖離し得ることを示唆し、政府による介入(例:グリーンジョブへの投資やケア労働の待遇改善)を正当化する論点にもなりえます。実際、「高給取りが何の役にも立たない仕事をしている一方、社会に不可欠な仕事が低賃金なのは、現行の報酬メカニズムが社会的価値を正しく反映していない証拠だ」という指摘は説得力を増しました (ref)。この文脈で、労働価値説や所得再分配の議論にも新たな視座が加わりました。つまり、賃金と社会的価値が必ずしも一致しない以上、報酬体系や課税を通じて「本当に必要な仕事」にインセンティブを与え直すべきではないか、という政策論です。

最後に、グレーバーの提唱した政治的仮説についても触れておきます。それは「現代の支配者層は人々を暇にさせておくことを恐れており、反乱を防ぐために無意味な仕事で埋め尽くしているのではないか」という大胆な仮説でした (ref)。この主張は一部の社会学者や批評家に支持され、特に20世紀後半以降の新自由主義的政策が公務員や福祉を削減する一方で金融やコンサル業などを肥大化させたことと結びつけて論じられました。「失業なき社会」は一見理想的に思えますが、グレーバーによればそれは 「誰も反抗する暇がない社会」 でもあります (ref)。実際、歴史的にも完全雇用政策が社会秩序維持の手段とみなされた例はあり(例えば旧東側諸国の「完全雇用」体制)、グレーバーは現代資本主義にも同様の側面があると示唆しました。この仮説自体は実証が難しいものの、労働を単に経済現象ではなく政治的統治技術として捉える視点を提供し、労働研究に一石を投じています。批判者は「陰謀論じみている」と退けつつも (ref)、支持者は「だからこそ労働時間短縮やベーシックインカムによって人々を無理な仕事から解放すべきだ」と議論を展開するなど、活発な思想的対話が生まれました。

【参考】

結論

「ブルシット・ジョブ」概念の登場以降、欧米社会では労働の価値と目的についての議論がかつてなく活性化しました。労働現場では、働きがいのない仕事への不満が顕在化し、労働者はより充実感や社会貢献を得られる仕事を求めるようになっています。企業も人材確保のために仕事の意義を打ち出す必要に迫られ、労働運動も量より質を問う局面へとシフトしつつあります。学術界では、支持・批判両面から「ブルシット・ジョブ」が吟味され、仕事の有用性を計測する研究や労働の主観的意味に関する理論が進展しました。グレーバーの主張に対しては賛否こそ分かれるものの、彼が提起した 「無意味な仕事の害」 という問題は確かなインパクトを残し、単なる思いつきではなく実証的にも検討に値する社会現象として認知されました。 (ref) (ref) 加えて、この概念は労働をめぐる幅広い思想的対話を促し、働くことの意義、労働と幸福、そして経済と人間の関係性について再考させました。グレーバーが残した印象的な言葉に「我々の経済は膨大なナンセンスを生み出すエンジンと化した (ref)」というものがありますが、こうした批判は決して一笑に付されることなく、現代の仕事観を問い直す鏡として機能しています。結局のところ、「ブルシット・ジョブ、それ以降」の世界で浮かび上がったのは、人々が本当に求めているのは“ただの仕事”ではなく“意味ある仕事”なのだというシンプルな真実であり、それを如何に実現していくかがこれからの課題であるといえます。 (ref) (ref)

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